五條市の歴史をご紹介!明治維新の先駆け、天誅組の変とは?新町通りとは?

五條市の歴史をご紹介!明治維新の先駆け、天誅組の変とは?新町通りとは?

2018年6月29日 | カテゴリ: コラム

悠久の歴史が流れる古都奈良の中でも、少しディープな歴史が残る街奈良県五條市。

今回は、奈良県五條市の歴史の中でも、明治維新に影響を与えた有名な歴史上の事件、天誅組の変や400年の町並みが残る新町通りの事について詳しくご紹介していきます。

歴史が交差する町、奈良県五條市

京都に隣接している影響もあって、様々な歴史の流れを受けてきた古都奈良。

今回はその歴史の流れを現代にも残している町並み新町通りや天誅組の変について詳しくご紹介していきます。

天誅組の変が起こったいきさつ

1800年代後半、日本では鎖国が終わり、江戸幕府の権力が弱くなったことで、多くの人たちがこれからの日本はどうあるべきなのかを真剣に考えるようになりました。

そんな中、幕府を倒し天皇が直接政治を行う新しい社会を創ろうとする尊王攘夷派と、幕府を立てなおし朝廷と幕府が協力して政治を行おうとする公武合体派との間で、険悪な雰囲気となっていました。

同年8月、朝廷の要職に就いていた三条実美(さねとみ)ら尊王攘夷派の公家たちは、幕府に攘夷決行(外国を排除する思想)の命令を下しましたが、幕府はためらってそれを実行しようとせず、ついに実美たちは倒幕の策を練りました。

天誅組の結果

倒幕軍の先鋒になろうとした天誅組の志土たちは密かに京都を出発し、70~80人ほどの軍勢で五條代官所を襲撃しました。

天誅組は、五條代官の鈴本源内らを殺害して代官所を焼き払うと、桜井寺を本陣に代官所管轄下の天領を朝廷に差し出すと宣言しました。

天誅組は「五條御政府」の看板を掲げ、近代初の革命政府を起こしました。

しかし、京都では公武合体派が政変を起こし、三条実美ら尊王攘夷派は失脚したために、一転して天誅組は逆賊として追討軍に追われることになりました。

天誅組の最後

天誅組は、尊王の志が厚い十津川に立てこもってそこで兵を募り、抵抗を続けましたが、天誅組が反乱軍となった事実が十津川郷士に知れると、彼らも離反して勢力は日に日に弱まり、9月24日に吉野郡でほとんど全滅しました。

天誅組の変は、尊王攘夷派によって試みられた最初の反幕府武装蜂起でした。

そうした意味で、天誅組の変は明治維新のさきがけとなるものであり、五條が明治維新発祥の地と言われるゆえんでもあります。

新町通りとは?

伊勢・大和・紀伊を結ぶ街道が交差し、吉野川が流れる五條は、古くから交通の要衝であり、伊勢街道の宿駅として栄えました。

1608年、松倉重政がこの地に一万石で入部し、二見城を築きました。

しかし、城と五條の町場とは離れていたので、お城との間を結ぶ道沿いに町場として発展させた城下街を築きました。

それが新町通りです。

そしてその町並みが今もなお現存されており、400年前の町並みを垣間見ることが出来ます。

江戸、明治からの歴史の流れが現存する町五條

400年前の歴史が残る町五條。

人口3万人ほどの小さな町ですが、ここから明治維新という新しい時代の流れが生れていきました。

ぜひ、五條市に来て、その歴史の流れを肌で感じてみてはいかかでしょうか。